「優しいね」と言われたかった。

「あなたって優しいね」

そう言われたくてずっと

無理をしてきたことに、

最近気付かされた。

小学校低学年の頃、

自分の思いをうまく表現できず、

トラブルや怖い目にあうと

パニックを起こしたりして

周りから疎まれていた。

学年が上がると、

パニックも堪えられるようになった。

同時に「優しいね」と

言われるようにもなってきた。

私は純粋な好意・褒め言葉として

喜んで受け取った。

ただコミュニケーション能力は

拙いままだったので相変わらず

嫌われることも多かった。

それは失礼なことをされても

仲間外れが怖くて反撃しなかったとか、

その場にいない人の悪口を

不愉快に思いながらも聞き続けたとか、

他の人なら止めるか逃げるかするものを

“受容”するようになっていたのが

「優しさ」に見えたのだろう。

今冷静に思い返すと、

「なんでも受け入れてくれる都合のいい存在」

だったのだと思う。

しかし当時の私は、その言葉が

暗闇を照らす一筋の光のように見えた。

そう言われることでしか、

自分の居場所を確保できないと思っていた。  

 

この大きな勘違いは大人になり、

キリストを信じてからも私の心を

縛り続けていた。  

ここ数年、様々な出会いに恵まれてきたが、

今後の人生をより良い形にしていくため、

人間関係について見つめ直してみた。

 

相手との距離感の温度差

相手の要求に応えられないがゆえの苦しさ

 

などに耐えられず距離を

置かざるをえないことが度々あり、

自分に何か問題があるのではないか、

と悩み続けていた。  

そして最近、今まで自分を悩ませてきた

《鎖》を

ようやく明言化できるようになった。

それは

 

人から好かれなければ生きてはいけない

だけど私は欠点が多いので好かれない

好かれたいなら、自分のして欲しいことを

相手にもしなければいけない

望むのは、欠点だらけの私から

長所だけを見出して

無条件で受け入れること

ならば自分も他人の欠点には目をつぶり、

長所を見つけて受け入れなければいけない

 

 

しかし相手を傷つけることを恐れるあまり

言いたいことも言えずに鬱積させる。

思いが外面ににじみ出て

自ら近寄りがたい存在となってしまう。

 

 

ところがいざ立場が逆転したとき。

熱心に話を聞いてくれる人に出会うと

この人とは特別な友達になれるのではないか?と

大きな期待をしてしまうことがあった。

嫌われる経験が多かったゆえにできた心のダメージ。

それを他人からの好意で埋めようと、無意識に求めていた。

その人は、誰にでもそのようにできるだけなのに。

私を悩ませた人たちはきっと、

その心の内を映す鏡だったのだ。

 

「わたしがいるではないか。」

その《鎖》を解いてくれたのは

人間よりも愛の深い、神の言葉だった。

神を忘れていたことを悔い改めた私に

聖書のこの一節が思い出された。  

”女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。

自分の胎の子をあわれまないだろうか。

たとえ女たちが忘れても、

このわたしは、あなたを忘れない。”

(旧約聖書 イザヤ書49章15節/

新改訳2017)

1 thought on “「優しいね」と言われたかった。

  1. 高橋規夫 says:

    ペンダント クロストとみ言葉が身にしみます❣️
    クロスの意味を知れば知るほどひざまずき
    ただただ感謝感謝です❣️

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