普段の暮らしの中で、神様の愛を伝える。

「神様を信じている人は、みな宣教師です!」

教会の礼拝で、宣教師さんがこう語ってくださいました。家族の中で唯一のクリスチャンである私には、とても大きな励ましとなりました。

私は神様を信じてから18年になりますが、家族や信仰を持つ前から付き合いのある友人の中で、まだ救われた人はいません。そのことを負い目に感じた時もありました。ですが今は私が神様に造られた本来の姿で生きることで、一人でも多くの人が神様を知り、救いに導かれることを願っています。

私が信仰を持ったいきさつは

こちらをお読みください。

私がクリスチャンになるまで  その1

http://eikoglory.net/2018/05/testimony1/

私がクリスチャンになるまで  その2

http://eikoglory.net/2018/05/testimony2/

私がクリスチャンになるまで  その3

http://eikoglory.net/2018/05/testimony3/

信仰を持った当初、教会で「伝道しましょう、あかししましょう」と言われるたびにプレッシャーを感じていました。もともと自分の思いを言葉にするのが苦手な上、葬儀や法事、墓参りで手を合わせないのを家族が快く思っていないことに失望していました。

みなさんの中にも、私と似たような経験をお持ちの方がいらっしゃると思います。しかし、逆の立場を想像してみてください。今まで当たり前のように自分たちと同じことをしていた人が、ある日突然「違う宗教を信じることにしたからもうやらない」と言い出したら、「今まで信じていたものは偽物だ!」と叫び出したら。自分とは違う世界に行ってしまったと感じて、悲しくなるのではないでしょうか。

自分が信じている神こそ本物であると確信しつつも、うまく伝えられないことに長年もどかしさを感じていました。その一方でキリスト教がまっとうなものであることを示すために私がしてきたこと、心に留めていることがあります。

①日頃から教会での出来事やクリスチャンの友人のことを家族に話す。

②葬儀や法事など仏事のとき、他の人と違う作法であっても気後れせずに堂々と振舞う。

③自分の思いを相手にきちんと伝えるための方法を様々な人から学び、実践する。私は本を読んだりセミナーに参加し、SNSやブログの投稿に生かしています。

④クリスチャンはない人との付き合いから逃げない。ばかにされるかもしれないと恐れたり、世俗的だと見下してはいけない。

⑤常に謙遜さを忘れない。誰に対しても敬意を持って接する。

恥ずかしながら、私は自分の視点でしか物事を見ることのできない、他人の気持ちがわからない、哀れな者でした。自分では善意のつもりでしていることも受け入れられず、かえって疎まれり蔑まれることも多々ありました。信仰を持ってからもそれがすぐに改善されたわけではありません。神様が様々な人間関係を通して人格を整えてくださいました。大きな痛みを伴いましたが、それは相手よりも自分を喜ばせることしか考えてなかったからだと、今なら理解できます。

私の信仰に対する家族のネガティブな反応も、寂しさからきていたのかも知れないと気づいたのは、実はつい数日前のことです。

教会に行くことを周りから止められる人もいる中、当時自分の車がなかった私に父は自分の車を貸してくれました。仏事の席で焼香を強要されることも、列席を止められることもありませんでした。感謝はしていましたが、それよりも肯定的に受け止められなかったことへの悲しみが上回ってしまい、まるで敵のように見えたこともありました。そんな自己中心さを今ここで悔い改め、私の信仰を尊重してくれている家族や親戚、友人たちに改めて感謝します。

そしてこのような私を用いてくださる神様の愛と憐れみにも感謝しつつ、私の中に生きておられるイエスさまを身近な人たちに、そして世界に示していきたいと、願っています。

最後に今回の学びを通して示された聖書のことばを、お分かちしたいと思います。

「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや、私自身が生きているのではありません。キリストが、私のうちに生きておられるのです。私のためにご自身をささげてくださった神の御子を信じた結果、今、私のうちにはほんとうのいのちが与えられています。 私は、キリストの死を無にはしません。もし私たちが、律法を守ることによって救われるなら、キリストが死ぬ必要などなかったはずですから。」

ガラテヤ人への手紙 2:20-21 (リビングバイブル)

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA